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突き詰めていくとシンプルになる3

2005年09月02日 21:47

3回目になりましたがなぜ裸なのかという疑問について私なりに考えてみます。
作品を作っていくうえで最初に行うことは、作品に投影させたい作者の意図に近い情報をいろいろなところから手当たりしだい集め処理できないほどの情報の中から私というフィルターを通しその膨大な情報を取捨選択していくのです。 人体という受信機に意図を投影させる手段を選んだ彫刻家はこの純化の作業を突き詰めていくと衣服というものも意図を投影する為には障害でしかなくなっていく。その理由としては衣服に社会性や日常という時間が投影されているからだと考えます。
大体の彫刻家はここらあたりで受信機の性能が一番安定するので全体に製作されるのは裸像になる。 ここを一歩進めたのが作品に動きをもたせない無い、立つ・座るだけというシンプルなものになる。さらに進むと顔がなくなったり手が無くなったり足が無くなったりする。

難しいかわからないのでひとつ例を。
アパレル業界のコレクションと呼ばれるデザイナーの発表会があります。 普段のデザイナーは着るという社会性を意識した着る為の洋服をデザインしていますがコレクションには着るという社会性を無視した作品を纏ったモデルが闊歩する。 ただの布が動きにあわせて踊るものだったりドレープが伸縮する様だったりほとんど裸で小さい布が張り付いていたり作品から枝葉が落ち根幹だけみせる感じなど。手法は違えど同じベクトルの話だと思うのです。

この純化という作業を続けていくと結論として

何も作らなく何も残さないのが究極の彫刻だとなってしまう。

それじゃあやるせないのでちょうどいいところで妥協しているのです。
その妥協が妥協といえるものかわからないが生きていくという事は妥協するということならば純化を続け絶望の淵に自殺する作家が本当は本物なのかも知れないです。
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